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迷惑な犬 Ⅱ [日々の雑感 5]


迷 惑 な 犬 Ⅱ


 また引き続き、怒りを覚える「犬」の話です。
    
 もう一度言いますが、わたしは、犬は大好きです。

 でも、ここに取り上げる犬は、本当に腹の立ついわゆる「過保護犬」なのです。愛犬家にとって、自分の飼い犬は誰しも可愛いものです。

 そういう人の中には、我が子以上の愛情を飼い犬に注いでいる人もおられるでしょう。しかし、そういう人も、だからといって、本心から自分が飼い犬よりも位が下だと思っておられる人はいないと思います。そこはやはり、人間と犬の一線はきっちりと引いておられるはずですよね。

 犬が飼い主の意志に反する行動をとれば、もちろん叱るでしょうし、それ以前に、他人の迷惑になる行動を愛犬がしないように、常のマナーとして気を付けているものです。

 ところが、稀に、そういうことなど全くお構いなしの非常識飼い主がいるのです。

 わたしは、現在のような病気になる前は、毎日欠かさず三キロほどの距離のウォーキングをしていました。

 そのウォーキングの途中では、頻繁に、飼い犬の散歩をする人たちと擦れ違います。

 ほとんどの飼い主たちは、ちゃんと愛犬のリードを短めに持ち、わたしとも挨拶を交わしながら、自らも午後の散歩を楽しんでおられます。が、そんな中、必ず会う六十代の小太りの女性がいたのです。女性は、いつも三匹の小型犬を引き連れて、散歩をしているのですが、その手に握られているリードは、かなり長めにしてあり、道の端を歩いている人の足元にまで、犬たちがまとわりつくほどでした。

 わたしも、その女性が犬の散歩をするところへ運悪く遭遇した時は、なるべく遠回りをして犬を避けていたのですが、そんなある時、その女性は、これまで以上にリードを長くして犬たちの散歩をしており、そんな飼い犬の一匹が、案の定わたしの足に飛びついて来たのです。

 咄嗟によけようとしたのですが、犬は単にじゃれつくだけではなく、わたしの履いているジーパンの裾に噛みついたのです。わたしは、思わず犬を放そうと、足を振りますと、何とその女性は、犬のリードを引くでもなく、ただ笑いながら、「あら、やだ、そんなものに噛みついて。何やってんのよ。そんなのおいしくないじゃない」などと、まったく動揺する気配もなく、平然としているのです。

 腹が立ったわたしは、今度は思いっきり足を蹴り上げるように振ると、流石に犬も振り離されて、噛みつくのを諦めました。

 そこで、つい、「リードをもう少し、短く持ったらどうですか!?それに、一度に三匹も散歩させるのなら、もっと注意して犬を見ていて下さいよ。歯が足まで届かなかったからよかったものの、直に噛みつかれていたら、保健所へ通報するところですよ!」と、キレました。

 ところが、女性は、わたしに謝るどころか、「大袈裟だよ。こんな小さな犬が噛み付いたって、怪我なんかしないよ」----そう言うと、顔を真っ赤にして逆ギレし、さっさと犬たちを連れて行ってしまったのです。

 こんなとんでもない飼い主です。犬たちがした糞の処理などもする筈がありません。アスファルトの道路の上でやらせっ放しで、行ってしまうのですから、実に最低の人間です。

 そのことがあってから、わたしは、ウォーキングのコースを変えました。

 本当に癪(しゃく)に障りましたが、またあのバカ飼い主に出くわすことを思えば、仕方ありません。他人よりも飼い犬の方が大事で、犬のやりたい放題にさせている飼い主が、本当に、愛犬家といえるのでしょうか?

 その後、やはり誰かの足に噛みついたその犬たちの一匹が、噛みついた相手の人に激しく蹴り飛ばされて、大変な目に遭ったという、噂を耳にしました。それから、その女性が犬を連れて散歩をする姿を、誰も見ていません。

    

    






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迷惑な犬 Ⅰ [日々の雑感 5]


迷 惑 な 犬 Ⅰ



 我が家は、一年前、今まで借りていた自動車の駐車場を、別の場所に引っ越しました。今までの所は、家からも近くて、とても使い勝手がよかったのですが、どうしても、我慢ならないことがあり、仕方なく場所を移動したのです。

 その我慢ならないこととは、あまりにひどい「犬の糞害」です。正に、目に余るといった状態で、これまでも、色々、ひどい目にはあって来ましたが、もはや、その限界を超えました。

 近所の自称愛犬家連中が、駐車場のある場所の地面が土であることと、あまり人目に付かない場所であることなどから、犬の散歩の途中で、平然とそこで糞をさせて行くのです。

 しかも、まったくのやりっ放し。スコップで拾ってビニール袋へ入れて持ち帰るという殊勝な飼い主など、皆無でした。

 まり腹立たしいので、ここで名前を列挙してやりたいくらいです!

 わたしも、犬や猫は嫌いではありません。いいえ、むしろ、大好きなくらいです。ご近所のやたらに吠えまくる犬を、十分で手懐けたことだってあります。(ちょっと、自慢)かつては、家で黒猫を飼っていましたし、小鳥だって、ブンチョウ、コキンチョウ、ジュウシマツ、カナリヤ、インコなどなど、様々飼っていました。

 でも、それとこれとは全く話が別です。「犬に糞をさせるな!」と、書いた立て札も立てましたし、犬猫撃退用の薬も何度も使用しましたが、飼い主がそこで糞をさせるために連れて来るのですから、効果はありませんでした。

 ついには、いったいどんな奴が犬を連れて来るのか見定めてやろうと、冬の寒さを我慢して、雪のある駐車場の自動車の中で張り込みをしていますと、一人の男が飼い犬を引っ張ってやって来ました。明らかに、知った顔です。わたしが、じっと車内で見ていますと、案の定、駐車場の中まで犬を入れ、糞をさせようとしています。

 わたしは、すかさず車外へ出て、「ここで、糞をさせないで下さいよ!ここ、駐車場なんですよ」と、言いました。が、その男は、平然と、「しょうがないじゃない。ここまで来ればもようしちゃうんだから。我慢させろっていうの?」などと、臆面もなくほざきます。

 「だったら、ちゃんと後始末して下さいよ。拾って持ち帰って下さい」と、わたしが言いますと、如何にも面倒臭そうな顔をして、半分腰を落としかけていた犬を無理やり引っ張って、そこから立ち去って行きました。でも、決して、諦めたわけではなく、やはり、翌日は、また同じ場所で糞をさせたのです。

 そして、春、雪が解けた途端、その糞が山のように土の上へ出現。足の踏み場もない有様で、とうとう、我が家の自動車は、その駐車場から撤退する破目になってしまったという訳です。

 飼い主が非常識だから、犬までバカになるのです!

 本当に、腹が立ちました!犬は、そこがトイレだと認識していまえば、そこまで来れば糞をしたくなるものです。動物の習性として、仕方のないことです。ですから、飼い主の方が、トイレを済ませてから散歩に連れ出すというように躾けをすれば、犬だって必ずそれに従うはずです。

 警察犬や、盲導犬が、好き勝手な場所で糞をしている姿など、見たことがありません。要するに、飼い主の側が、犬を単なるぬいぐるみの延長のような感覚で安易に飼うから、そういうバカ犬が仕上がるのです。

 イギリスなどでは、原則、庭のない家庭は、犬を飼う資格が与えられませんし、飼う犬も、必然的に仔犬からではなく、事情があって飼い犬を手放さなければならない人の犬を譲り受けるという飼い方ですから、ちゃんと躾け済みの成犬を飼うことになる訳なのだそうです。

 このようなペットの躾けも満足に出来ない飼い主が増えて行くのを防ぐためには、これからは、日本も、外国並みの厳しいペット飼育のための規制を設けて、少なくとも、犬を飼うことに関しては、免許制度でも導入した方がいいのではないかと思います。

 たとえば、飼い主には、愛犬を一ケ月間の訓練教室へ通わせる義務を負わせるとか、飼い主本人へも、ペットを飼うための心得を学ぶ教室への受講を課すとか、やり方は色々と工夫できるでしょう。

 そういう所へ飼い主が支払う受講料を、動物愛護のための資金へ回すという方法も、ありだと思います。要するに、犬猫のような物は、別段、人間が生きて行く上でどうしても必要な食糧や衣類などとは違って、いわば嗜好品や贅沢品の一種なのですから、そのくらいの負担金は、支払ってもらってもしかるべきだと考えます。

 それに、そうした躾けをキチンと与えられたほうが、犬にとってみても、どれほど幸せか判りません。そこまでして手塩にかけたペットを、安易に捨てようとする飼い主も、そうはいないでしょうからね。

 そこで、飼い主さんに、お願いです。あなたの愛犬を、近所の人間に「バカ犬」呼ばわりさせないためにも、しっかりとした糞の処理と躾けを心がけて下さい。 



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愛犬家の残酷さ [日々の雑感 5]


[犬]愛犬家の残酷さ


 我が家の近所に口を開けば飼い犬の話しかしないという「愛犬命」女性がいる。

 家族も呆れるくらいの溺愛ぶりで、何でもかんでも犬が一番。毎日の生活さえ犬が中心で回っている。

 この間、近くでお葬式があった時も、「犬にご飯をあげなきゃならないからお葬式には出られない」と、長年親交のあった故人の葬儀を欠席した。

 こういう極端に片寄った「愛犬主義」人間が、最近とみに増えているようだ。

 ご主人や子供さんへの愛情を犬に対するそれの半分でも向ければいいのにと思うほど、その溺愛ぶりは度が過ぎている。

 家族も近所の住人も呆れを通り越して「変わり者」扱いなのだが、本人はまったく気が付かない。

 特に周囲が迷惑がっているのは、犬が話題になった時の話し方である。

 その飼い犬を「犬」などと呼ぼうものなら女性の顔色が一気に変わるのだ。

 「ワンコだってちゃんと感情もあるんだから、名前で呼んでよ」

 そういうので、名前を呼び捨てにすると、今度は、

 「ちゃん付けで呼んでくれないと、ワンコが可哀そう」

 いい大人が犬のことをワンコというのも虫唾が走るが、いったいいつからこんなバカげた呼び方で犬猫を呼ばねばならなくなったのだろうか?

 わたしの甥っ子が三歳の時、「ほら、あそこにワンワンがいるよ」と、教えたわたしに向かって、「おばちゃん、あれは犬だよ。ワンワンなんておかしいよ」と、言ったほどである。

 子供だって、大人がワンコなどという呼び方をすれば、変に感じるのだ。

 わたしは、このブログでも再三再四書いているが、犬も猫も大好きである。

 しかし、それは、人間と同じとかそれ以上とかの対象ではない。あくまでも、人間を精神的肉体的にサポートするべき生き物としての重要性を認めているといういことなのだ。

 だから、法律でも犬や猫は「物」と同じ扱いであり、もしも、誤って自動車ではねたところで、「器物損壊」にしかあたらないのだ。

 しかし、そういうとんでもない犬大好き人間を自認している人たちほど、実は犬に対して残酷なことをしていることに気付いていないのだ。

 昔から、狩猟犬や番犬として人間を助けて来た犬を単なる愛玩動物に貶めたのは、他ならぬそうした人間たちなのである。

 自分たちの愛玩用としてより見栄えが良いようにするため、「品種改良」「小型化」「断耳」「断尾」などをしてまで犬の格好を決めて来たのである。近年は、これは、犬にとっての虐待に値するのでこうした行為をしてはならないと定めた国も出てきた。

 わたしが愛犬家に言いたいのは、もしも、あなたが犬で、手が長すぎる足が長すぎると言って、勝手に切られたらどう思うかということである。耳の格好が悪いと言って、耳をそがれても文句は言えないのだ。

 わたしは、そういう極端な愛犬家に聞いてみたいことがある。

 もしも、あなたの目の前の川でまったく見知らぬ他人の子供とあなたの飼い犬が同時におぼれていたら、いったいどちらを先に助けるのかということである。

 わたしは、以前海でおぼれかけた弟をただ一人で助けに行って自分も死にかけたことがある。絶対に、一度に二人は救えるものではない。

 犬は本能的に泳げるということは抜きにしてと考えた時、よもやそれでも「愛犬の方を先に助ける」などとは言えないはずである。

 もしも、犬の方を先に助けるなどと答える者がいたとしたら、そんな人間こそ「生命の本質」を判っていないのだから、なおのこと犬など飼って欲しくはないと思うのである。

 もう一度言っておく。

 犬は、あくまでも人間を助けるための生き物で、人間と同等ではないのである。

    

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田舎の祭りには身分制度が復活 [日々の雑感 5]



田舎の祭りには身分制度が復活


    今年の五月五日には、わたしの住む地域でも御柱祭が行なわれました。

    一見楽しい田舎のお祭りですが、御柱祭に限らず、こうした田舎のお祭りほど、その土地に昔から住む家系を持つ家族と、よそから移り住み、その土地で暮らした歴史の浅い家族との差が、歴然と表れるものもないのです。

    古くからその土地に住む、いわゆる「生(お)いつき」と、呼ばれる人たちの子供は、真っ先にお祭りの重要な役割を担わされるのです。でも、その他大勢の子供たちは、そういう大役をやりたいと思っても、声もかけてはもらえません。

    実は、わたしの母にも、このお祭りに関して苦い経験がありました。

    母がまだ小学生の頃、地元のお祭りの際に、神社で舞を奉納するための数名の巫女さん選びがありました。母の実家は上級武士の家系ですが、維新後に群馬県から信州へ移り住んだものです。そんな訳で、元から、巫女になどなれるわけはないと諦めていたそうです。

    しかし、巫女舞は綺麗な衣装をまとい、華やかな髪飾りを付けて舞をまう、少女たちにとっては憧れの晴れ舞台なのです。

    そんな時、巫女役に選ばれた母の友人の老舗旅館の娘が急病で舞の稽古が出来なくなってしまったのです。地区の役員さんたちは困惑し、急きょ母にその代役を頼みに来たのです。

    祖父は、最初は「うちの娘にそんな大役は出来ない」と、断わろうと思ったそうですが、やりたいと言う母の気持ちを汲んで、祖父も許したのだそうです。

    母は、せっかく頂いた巫女の役を恥ずかしくないように果たさねばならないと、毎晩懸命に舞の稽古に励んだのでした。が、しばらくすると、その急病の娘の病気が治り、自分が巫女に復帰したいと言い出したのです。

    役員さんたちは、相談の結果、結局母に役を諦めてもらおうということになり、母の実家へそろってお詫びに来たのでした。祖父は、「旅館さんの娘さんが復帰したいというのなら、それは仕方がない。お前は諦めろ」と、母を説得し、せっかく巫女舞を完璧にマスターしていたにもかかわらず、その旅館の娘の我がままで、母の夢はあえなく消滅してしまったのでした。

    母は、その時の悔しさを未だに鮮明に覚えています。

    お祭りとは、そういう子供たちの純粋な気持ちを、因習という観点からいとも簡単にひねりつぶしてしまう不条理をも含んでいるのです。

    以前にも、長野県のある地域で神社の社殿が放火され、お祭りの大役に選ばれなかった子供の恨みによる犯行だったことがありました。

    そして、今なお、こうした「生いつき」優先の制度は変わってはいません。

    皆さん、お祭りで綺麗な衣装をまとう子供たちを微笑ましく見物することもあるでしょう。

    しかし、そういう子供たちを見る時、ちょっと、考えてみて下さい。

    この子供たちが選ばれた陰で、何人もの多くの子供たちが悔し涙を飲んでいることを・・・・。

    田舎のお祭りとは、そういう残酷な一面をも持っているのです・・・・。



    ***   因みに、わたしの住む地域では、御柱祭の曳き綱は、地元の子供でも観光客の子供でも誰でも曳くことが出来ます。わたしも子供の頃、鉢巻き法被姿で綱を曳きました。

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突っ込んで来た軽トラ [日々の雑感 5]


突っ込んで来た軽トラ[車(RV)]



    少し前のこと、共同浴場から外へ出たわたしの右手方向から、一台のワゴン車が走って来た。

    わたしは、そのワゴン車をやり過ごして道を渡ろうとした。

    ワゴン車は、しばらく走って左折し、その時、左方向からまっすぐ道路を上がって来た軽トラックが目に入った。

    軽トラックは、ゆっくりとした徐行運転で、ウインカーを右へ倒し、今しがた通ったワゴン車と同じ方向へ走って行くものと、わたしは思っていたので、道路を横断しようとしたのだ。

    ところが、その軽トラックは、いったい何を思ったのか、突然、方向指示器の点滅を解除し、アクセルを踏んだのだ。

    運転席には、七十代ぐらいのつば付きの帽子をかぶった男性がおり、まっすぐわたしの方を見詰めている。

    彼の目には、明らかにわたしの姿は判っていたはずなのだ。

    にもかかわらず、スピードを緩めるどころか、ますます加速して、こちらへ向かって突っ込んで来た。
    
    わたしは、どういうことか判らずに、慌てて道路を渡り切り、その軽トラックを間一髪のところでやり過ごした。

    この様子を見ていた近くの商店のご主人や、中学生なども、呆れた顔つきで、

    「何なんだ、あれ!?」「目の前を人が横断しているのに、見えていなかったのか?」

    と、話していた。

    確かに、運転者の男性は、わたしを凝視していた。それなのに、加速するとは、どういう神経だったのだろうか?

    あまり、腹が立ったので、家へ帰ってからその話をすると、父親曰く。

    「高齢になると、間違って方向指示器を出してしまったような時、失敗したと思う気持ちを隠すために、わざと何でもなかったふりをして、スピードを上げる奴がいるんだよ。本人は照れ隠しのつもりなんだろうが、頭の中はほとんどそれだけのことでもパニック状態だから、前方を見ているようでも、実際頭では認識出来ていないことがあるんだ」

    つまり、目はまっすぐこちらを見ていても、彼の目にわたしの姿は確認できていないということだったようである。

    方向指示器を間違えて出したところで、何もそんなに焦ることでもないだろうに、と、わたしたちなどは考えてしまうが、高齢者は、「ああ、あのじいさん、道、間違えてるよ」と、誰かにバカにされているのではないかというあらぬ想像をしてしまい、わざと平静を装うことがあるようなのだ。

    これは、本当に危険なことである。

    父親は、「こんどそんなことがあったら、ナンバーをはっきり見ておけ」と、忠告してくれたが、今回は、運転者の顔を把握することが精いっぱいで、そこまで気が回らなかった。

    とにかく、女性と老人の運転する自動車には、特に注意が必要だということを、改めて認識した。

    女性は、とかく、子供のことや食事の支度、介護のことなどで頭がいっぱいで、前を見ているようで見ていないことがあるそうだが、高齢者もやはり自分のことに気を取られて、頭が真っ白になってしまうことがあるようだ。

    もしかしたら、彼も道を間違えたパニック状態のまま、ブレーキとアクセルを踏み間違えていた可能性もある。

    いずれにしても、恐ろしい話だと思った。[がく~(落胆した顔)]

    

    


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おしゃまな二歳児 [日々の雑感 5]


おしゃまな二歳児[あせあせ(飛び散る汗)]



    わたしが共同浴場へ行くと、まだ二歳ぐらいと思われる幼い女の子が六十代のおばあちゃんと入っていた。

    女の子は、金魚のおもちゃを湯船に浮かべながら、足先だけを湯船に入れる格好で座り、じっと無言でわたしの方を見ている。

    あまり、この辺りでは見かけない祖母と孫の顔だが、湯船に入っているおばあちゃんに、

    「上がってばかりいたんじゃ風邪をひいちゃうから、お風呂には入ろうね」

    と、言われても、小さく首を横に振るだけで、やっぱり無言である。

    わたしも、かけ湯をしてから湯船につかると、ちょうどその女の子と顔の位置が同じくらいになった。

    女の子は、なおもじ~っとこちらを見ている。ニコリともしない。

    すると、しばらくして、女の子が突然、口を開いたのだ。

    「おばあちゃん、どうしてこの人、あたしを見ているの?」

    この人って、わたしのことか?

    すると、おばあちゃんは、「誰も、見てなんかいないよ」と、答える。

    しかし、その女の子は、首を振り、

    「ううん、見てるもん-----」と、言ってから、おばあちゃんの方へ顔を向け、こう口走ったのだ。

    「きっと、あたしが可愛いからよ。可愛いって、つらいわね~~~」

    ぬわんだとおぉぉぉぉ!!

    誰も、お前を見ちゃいないし・・・・。可愛いなんて、思ってもいないし・・・・。(-_-;)

    なんという、自惚れ娘なんだ???

    驚いたおばあちゃん、わたしの方を見て、実に恥ずかしそうに頭を下げた。

    女は、怖い。こんなチビでも自分の魅力を認めて欲しいのだ。

    きっと、このおしゃま娘は、保育園(通っていたとしたら)でもこの調子なんだろうな。

    大変だ~~~~。


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諏訪の御柱で残念な出来事 [日々の雑感 5]


諏訪の御柱で残念な出来事


 以前、新聞の投書欄を読んでいたら、諏訪の御柱祭の山だしと呼ばれる御柱曳行の際に、とても残念な出来事があったと、書かれていた。

 それは、一人の小さな男の子が、山だしの途中の御柱にまたがろうとした時のことであったらしい。

 御柱は、山から切り出したものを各地区の祭りに携わる男衆が里へと引き出して行くのだが、その巨大な御柱が曳かれて行く時、その柱の担当の地区の子供たちは、柱に触ったり、引き綱を一緒に引いたり、柱の上にまたがったりすることができるそうなのである。

 ところが、各地区の男たちは、その地区ごとに違う色の装束やたすき(紐)を身につけているそうで、同じ地区の子供たちもそれと同じ色のたすきをかけているというのである。

 しかし、その男の子は、どうやらその御柱の担当地区の子供ではなかったようで、たすきの色が違ったのである。

 途端、その男の子に向かって、役員らしい一人の高齢の男性が、もの凄い形相で怒鳴りつけたというのである。

 「紐の色が違う奴は、乗るんじゃねぇ!」

 その剣幕に驚いた男の子は、一瞬、ビクンッとして父親らしき若い男性の陰に隠れると、その男性とともに人ごみの中へ去って行ってしまったというのだ。

 どうして、高齢者のしかも男性は、祭りとなるとこれほどまでにも人格が豹変してしまうのだろうか?

 おそらくは酒も入っていたのだろう。そして、昔ながらのしきたりを重んじようとする頭の方が先走ってしまうのかもしれない。それよりも、自分が小さな頃も同じようなことをして、祭りを仕切るお年寄りたちに叱られた経験があるのかもしれない。

 しかし、それにしてもだ。御柱祭を楽しみにして、装束まで付けて柱に乗ろうと思っていた子供に対して、この言い方はどうなのだろうか?

 どの地区の御柱だろうと、子供が楽しみにしていることを、神様が不快に思うはずはない。

 男の子だろうと、女の子だろうと、乗りたい子供は皆乗せてやればいいのだ。その時の思い出が素晴らしければ、また自分たちが大人になった時に、この祭りを盛り上げようという気持ちにもなるというものである。

 わたしの近所にも、子供の頃、秋祭りの灯篭担ぎをさせてもらえなかったというだけで祭りの寄付を拒んでいる男性がいる。子供にとってお祭りの記憶がどれほど強く印象付けられるかということが、大人は忘れてしまうのである。

 祭りの際に受けた屈辱が忘れられず、社殿に火を付けたという人物の話も聞いたことがある。

 この怒鳴られた男の子が大人になった時、「諏訪の御柱になど絶対に協力するものか!」と、いう気持ちにならないという保証はない。

 なんと、罪作りなことをしてしまったのだろうかと、腹立たしささえ覚えた投書内容であった。

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肺炎と認知症 [日々の雑感 5]


肺炎と認知症


 新聞を読んでいたら、こういう状況になった時、家族はどうしたらいいのか?と、考えさせられる記事があった。

 八十代の高齢の母親を介護する女性の切実な気持ちが書かれた記事だったが、この母親には認知症があり、それでもいつもは穏やかな母親だということである。

 母親は、二つの病院にかかっていて、一つは普通の一般総合病院、もう一つは認知症治療のための精神科病院である。

 そして、この母親が、高齢者によくある肺炎にかかった。

 女性は、躊躇なくいつもかかりつけの一般総合病院へ母親を連れて行った。そこの内科医の診断では、やはり入院が必要とのこと。女性は、母親を車椅子にのせて入院病棟へと入った。

 途端に、これまでは病院で診察を受ける時も穏やかだった母親が、いきなり、「こんなところにはいたくない!家へ帰る!」と、騒ぎ出したのだという。

 医師や看護師たちが点滴をしようにも暴れ方がひどくて手がつけられない。

 女性は、それでも母親を病院に頼んで自宅へ帰ろうとしたそうであるが、すぐに病院から携帯に連絡が入り、「とても当院では引き受けられないので、お母さんを引き取ってもらいたい」と、いう。

 母親の暴れがひど過ぎて、看護師たちが七人がかりで押さえつけようとしたところ今度は大声で泣き出すしまつで、同室の患者たちを別室へ移さなくてはならなくなったというのである。

 女性は、仕方なく、今度はこれもかかりつけの精神科病院へ母親を連れて行こうと連絡をしたところ、入院は出来るが肺炎の治療は専門の医師がいないので無理だと言われてしまった。

 女性は、「それじゃ、認知症で肺炎の患者は、死ねということですか!?」と、電話に出た医師を怒鳴りつけたという話である。

 まあ、この母親は、その後幸運にもすべてをケアしてくれる医師と巡り合って、助けてもらったようであるが、確かに、認知症患者を受け入れる病院側にも難しさはあるだろう。

 暴れる患者をベッドへ無理やり縛り付ければ、家族から虐待だと言われ、だからといって、他の入院患者への迷惑を黙認している訳にもいかない。

 治療をしようにも手足をばたつかせられては無理であるし、では、精神科病院に内科の医師を置いて欲しいといっても、この医師不足の世の中に、そう簡単に見付かるものではない。コスト面の問題もある。

 もちろん、この母親の肺炎も自宅で治療出来ればいいのだろうが、重症度によって無理な場合もあるだろう。

 これは、本当に人ごとではない問題で、これからはこういう認知症患者がますます増えることと思われる。

 暴れる認知症患者の扱いをどうしたらいいのか、患者の暮らす環境を極力変えることなく治療に当たるにはどうすればいいのか、より手厚い在宅診療のあり方を模索しなければならない時期に来たように思われる。

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日本の水を狙う中国 [日々の雑感 5]



日本の水を狙う中国


    今日は、ちょっと不安なお話です。

    今、恐ろしい勢いで高度経済成長を続け、世界第二位の経済大国となった中国ですが、この中国が抱えている最も深刻な問題が「水不足」だといいます。

    水は、経済を発展させる上で不可欠な要素を持ち、日本には、この世界に誇る美しい水があったために精密化学などの分野でも抜きんでた成果を収めて来た訳です。

    しかし、ここへ来て、この日本の美しく安全な「水」に、中国資本が目を付け始めたのだといいます。

    日本人は、「空気」と「水」は、黙っていても手に入ると思いこんできましたが、今や世界では「水を制する者が世界を制する」と、いう言葉が常識となっています。

    そこで、そうした危機感の薄い日本に目を付けた中国資本が、日本の個人資産である水源を持つ山や森に静かに入り込み、そこの水利権を安価で手に入れ、中国へ送るための「水工場」を建設する可能性が大きくなって来たのだといいます。

    水源を持つ自治体は、ほとんどが過疎地です。限界集落と呼ばれる場所も多いでしょう。

    そこに水利権を「1000万円で売って欲しい」などと持ちかけられれば、簡単に地主は手放してしまうと思うのです。しかし、そうなってしまったら、その下流域の人々の暮らしはどうなると思いますか?

    すべて中国資本に牛耳られ、水道の使用量も農業用水も、病院や学校で使用する水も、尽く中国支配になってしまうのです。

    そうなれば、どれほどの高額な利水費用を請求されるか判りません。

    そして、彼らが今一番興味を示している都道府県が、多くの山林をかかえる北海道や長野県だというのです。

    身近なところでは志賀高原には、国有林が多く、また、和合会や共益会という財団が管理している場所がほとんどですから、簡単に中国資本が乗り込める余地はないと思いますが、菅などの穂波、佐野地域を下流に持つ場所には、その権限がありません。

    また、飯山戸狩地区などには、やはり、盲点も多いでしょう。

    ここは、早く本腰を入れて地域の水源を国有林化しなければ、危険なことこの上ありません。

    「水」は、生命の源です。この事実に早く目を向け、対策を講じなければ後世に大変な危機を招きかねない問題だと思います。

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彼女が教師をやめた訳 [日々の雑感 5]


[リボン]彼女が教師をやめた訳[リボン]


 知り合いの女性に最近、教員をやめた人がいる。

 その女性に理由を訊ねると、一言で言って、最近新しく教員になった同僚たちとあまりに話が合わなくなったからだというのだ。

 世代の違いということではない。要は、同僚たちの知識や教養レベルがあまりに低く、それに合わせなければならない自分が疲れてしまうということであった。

 まず、言葉が判らない。漢字が読めない。教師としての学問的知識だけではない、人間としてのプラスアルファーがまったく備わっていないというのである。

 そのため上司や年長者に対する敬語がまるで話せないし、あわよくば仕事をしないで済まそうという姿勢ばかりが目につき、ストレスの溜まり通しだったというのである。

 その彼女が言うには、最近の若者は言葉も貧弱で、人間性の深みが感じられないということである。また、独身の彼女は、「どうして結婚しないのか?」と、よく訊かれるそうなのだが、「尊敬できる人がいない」と、いうのが答えだそうだ。

 確かに、近頃は、尊敬できる人間などほとんど存在しない。彼女の理想の夫婦像は、互いにライバルのように切磋琢磨出来るものだが、そんなことを今の男性たちには望むべくもないと言う。

 自分自身が成長できなくて何の結婚か?と、考えているのだ。

 わたしも、こういう考え方は判らないでもない。世の中に独身の女性が増えている一番の理由は、ここにあるように思える。夫の付属品に甘んずることを潔しとしないのである。

 また、夫側にも女性を付属品とするほどの知性も経済力もない。

 話の内容がお互いに同等のレベルではなく、「ここまでは話せるけれど、ここからはやめておこう。どうせしゃべっても判らないだろうから・・・・」などと、気持ちにブレーキをかけながら会話をするのは、苦痛でしかない。

 彼女は懸念する。「教育レベルは、今後何処まで落ち続けるのだろうか?」と-----。

 これからは教員免許を大学院修了者にしか交付しないとする民主党案の意味も、ここにあるのではないかと思うのである。

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