何故、人は傷付くのか? [心理の不思議 14]


[もうやだ~(悲しい顔)]何故、人は傷付くのか?



    人の心というものは、ほんのささいな一言で傷付くものである。

    ある裕福な家の専業主婦が、パートをしている隣の家の主婦にこんなことを言ったとする。

    「あなた、お勤めに出ているんですってね」

    裕福な家の専業主婦は、特別な意図もなく隣の家の主婦の事実を言ったに過ぎない。

    しかし、隣の家の主婦は、この一言にひどく傷付いた。

    「うちが貧乏だからパート勤めに出ているんでしょうと、こちらをバカにしているんだ」

    と、受け取ってしまったのだ。こういうことは、あなたの身の周りでも良くある話だろう。

    つまり、これは相手のせいで自分が不快な気分になったのではなく、自分自身が不快な気分を作り上げたことに他ならないのだという。

    このブログでも以前書いたのだが、自分が入院したのに見舞いにも来なかった人に対して、「どうして見舞いに来なかった」と、問い詰めても、相手は「そんなささいなことで・・・」と、呆れ返ったという話も、これと同じことが考えられる。

    要は、見舞いに行かなかった人にとってはごく小さな問題でも、入院した本人にとっては大問題という感覚の違いなのである。

    でも、ここで一度立ち止まって考えてみると、相手は入院した人の病気をささいな問題と思ったから見舞いに来なかったわけで、これが重大な病気だと思っていれば必ず見舞いに来たはずなのである。

    要は、裏を返せば、「自分の病気はそれほど大したものではない」と、いう証拠だということになる。

    上記の例にしても、裕福な家の主婦は何でもないささいな日常会話だと思っていたからこそ、そんな話をしたのであって、もしも、本当に隣家の主婦を哀れんでいるのなら気の毒に思って声すらかけないはずなのである。

    よほど、隣家の主婦との間に険悪な関係でもあるのならば、嫌みということも考えられるが、そうでないのなら隣家の主婦があえて気にすることはないのではないだろうか。

    ささいなことだからこそ相手は口に出したのであり、特段傷付くほどの意味もないというのが心理学者の分析でもあるようだ。

    もう少し言えば、自己評価が高く健全な自尊心を持っている人は、そんなことでは簡単に傷付いたりはしないのだそうである。

    ところが、その反対に神経症的な自尊心にとらわれている自己評価の低い人ほど、相手のどうでもいい一言で容易く傷付いてしまうのだという。

    つまり、もしもこの隣家の主婦が、「パートって楽しい。職場の友だちも出来て、今、とても充実しているわ」と、思っていたのなら、むしろ専業主婦をしている裕福な家庭の主婦を逆に、「働く喜びも知らないなんて、可哀そうな人だわね」と、哀れむことさえ出来るのである。

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     <今日のおまけ>


    この間のテレビ番組で、色々な職業の人たちが自分たちしか知らない職場の秘密を「ぶっちゃける」というバラエティーを放送していた。

    元刑事のおじさんが「ぶっちゃけ」た、警察官が殉職すると、遺族がもらえるお金は「5億円」というのにはビックリだった。

    全国に25万人いる警察官一人一人が2000円の香典を包めば----という計算らしいが、確かにあり得る話である。

    しかも、「刑事ドラマはファンタジー」という意見にも苦笑してしまった。

    わたしは以前、警察官たちが実際に起きた事件を題材にして書いたドキュメンタリー小説を読んだことがあるが、確かにドラマのような華々しさなど欠片もない。

    外科医の先生に聞いた話でも、手術中に看護師に「汗」なんて言って額を拭いてもらう医師はあまりいないそうだ。

    また、番組内での「海上自衛隊の潜水艦乗組員の練習生が、魚雷と一緒に寝ている」という「ぶっちゃけ」にも驚いた。

    そういえば、かつて防衛医大の寮へ行った際に見た学生たちのベッドが、正にあの潜水艦内のベッド同様に狭かったのを思い出した。


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