真の大人は頑張らない [心理の不思議 15]
真の大人は頑張らない
普通の社会通念からすれば、頑張るとか努力するとかいうことは、基本的に立派なことだと位置づけられているが、その頑張りや努力を人に認めて欲しいという思いで行なっている人は、実はかなり幼児性の強い人だといえるのだそうである。
何事にも一生懸命に取り組んで、自分にも他人にも厳しいというような人がよくいるが、これはすなわち「自分がこんなに頑張っているのに、どうしてお前たちはおれの気持ちが判らないんだ」という、依存度の高い人なのだそうである。
また、「こうすればいい」「こうするべきだ」「こうしなさい」が口癖の人も、結局は他人を自分の意のままにコントロールしたいと考える、幼児性の強い我執人間であるというのが心理学の考え方らしい。
「彼は、人知れず努力していて本当に偉い」
と、周囲が評価する人物も、そう言われた時点で既にその努力は人に知られているわけで、真に努力を楽しんでいる大人なのか否かは疑わしいといえるのだ。
裏を返せば、真の大人とは他人に自分が頑張っているようには思わせない人ということになる。
ましてや、自分の口から二言目には、「わたしは頑張っている」などという台詞は、間違っても吐かない人間なのである。
誰かに認められたいとか、知ってもらいたいなどという欲求があるうちは、自分もまだまだだなァ・・・と、思うべきなのだそうだ。
他人に心が縛られているからこそ、そうした欲求が生まれるのであって、他人がどう評価しようとまったく自分とは関係ないと達観出来た時、人は真の大人になれるのだという。
良く親が子供に向かって言う言葉に、「みんな、あなたのためなのよ」というものがあるが、これもある意味子供への依存心が言わせる言葉であり、真実は、「あなたがそうしてくれないと、ママが困るのよ」なのだという。
そう言われると、夢や希望に向かって頑張る人は、皆、精神的に子供なのだという理屈になる。
要するに、ある意味、真の大人とは、自分のことはもとより他人のことにもさほど執着がなく、自らの成長や向上にすでに満足しきってしまった人間ということなのかもしれない。
<今日のおまけ>
晴れたり曇ったり、雨が降ったりと、今日は不安定なお天気でしたね。
せっかくの大型連休にもかかわらず、こんな天気では気分も浮きません。
明日からは、何とか五月晴れと行きたいものですが、どうでしょうか?
ところで、上記のように常に人が自分のことをどう思うと関心なく、自分がやりたいことだけに集中出来る人間になるには、普通の人はかなりの精神的修行が必要な気がします。
普通の人間は、どうしても自分以外の人間の言動に惑わされやすいものですから、自分が思い描いていた以外の反応が相手から返って来ただけで、その相手への不信感を膨らませてしまいますよね。
友人との気軽なおしゃべりは平気なのに、文章を書くのはどうも苦手という人がいますが、これも「てにをは」や敬語の使い方一つで、相手を怒らせてしまうのではないかと考えるために、どうしても筆が進まないということもあるようです。
相手がどう考えても知ったこっちゃないと開き直れれば楽ですが、そう単純に割り切れないのが世間というものですから。
も一つところで、わたしのハンドルネームを書き間違えている例のブロガーさんの記事へもう一度コメを書き入れてみたのだが、やはりこちらのハンドルネームを間違えたまま返事を書いてよこした。
どうやら、間違いネームの方をこちらの名前だと完全に思い込んでしまっているようだ。
それとなく訂正を促した文章も、まったく眼中に入ってはいなかったらしい。
よほど、思い込みの激しい人のようだ。こういうおっちょこちょいな人って世の中にいるんだなァ・・・。
もう、わざわざ訂正を諭すのも諦めました。(溜息)
普通の社会通念からすれば、頑張るとか努力するとかいうことは、基本的に立派なことだと位置づけられているが、その頑張りや努力を人に認めて欲しいという思いで行なっている人は、実はかなり幼児性の強い人だといえるのだそうである。
何事にも一生懸命に取り組んで、自分にも他人にも厳しいというような人がよくいるが、これはすなわち「自分がこんなに頑張っているのに、どうしてお前たちはおれの気持ちが判らないんだ」という、依存度の高い人なのだそうである。
また、「こうすればいい」「こうするべきだ」「こうしなさい」が口癖の人も、結局は他人を自分の意のままにコントロールしたいと考える、幼児性の強い我執人間であるというのが心理学の考え方らしい。
「彼は、人知れず努力していて本当に偉い」
と、周囲が評価する人物も、そう言われた時点で既にその努力は人に知られているわけで、真に努力を楽しんでいる大人なのか否かは疑わしいといえるのだ。
裏を返せば、真の大人とは他人に自分が頑張っているようには思わせない人ということになる。
ましてや、自分の口から二言目には、「わたしは頑張っている」などという台詞は、間違っても吐かない人間なのである。
誰かに認められたいとか、知ってもらいたいなどという欲求があるうちは、自分もまだまだだなァ・・・と、思うべきなのだそうだ。
他人に心が縛られているからこそ、そうした欲求が生まれるのであって、他人がどう評価しようとまったく自分とは関係ないと達観出来た時、人は真の大人になれるのだという。
良く親が子供に向かって言う言葉に、「みんな、あなたのためなのよ」というものがあるが、これもある意味子供への依存心が言わせる言葉であり、真実は、「あなたがそうしてくれないと、ママが困るのよ」なのだという。
そう言われると、夢や希望に向かって頑張る人は、皆、精神的に子供なのだという理屈になる。
要するに、ある意味、真の大人とは、自分のことはもとより他人のことにもさほど執着がなく、自らの成長や向上にすでに満足しきってしまった人間ということなのかもしれない。
<今日のおまけ>
晴れたり曇ったり、雨が降ったりと、今日は不安定なお天気でしたね。
せっかくの大型連休にもかかわらず、こんな天気では気分も浮きません。
明日からは、何とか五月晴れと行きたいものですが、どうでしょうか?
ところで、上記のように常に人が自分のことをどう思うと関心なく、自分がやりたいことだけに集中出来る人間になるには、普通の人はかなりの精神的修行が必要な気がします。
普通の人間は、どうしても自分以外の人間の言動に惑わされやすいものですから、自分が思い描いていた以外の反応が相手から返って来ただけで、その相手への不信感を膨らませてしまいますよね。
友人との気軽なおしゃべりは平気なのに、文章を書くのはどうも苦手という人がいますが、これも「てにをは」や敬語の使い方一つで、相手を怒らせてしまうのではないかと考えるために、どうしても筆が進まないということもあるようです。
相手がどう考えても知ったこっちゃないと開き直れれば楽ですが、そう単純に割り切れないのが世間というものですから。
も一つところで、わたしのハンドルネームを書き間違えている例のブロガーさんの記事へもう一度コメを書き入れてみたのだが、やはりこちらのハンドルネームを間違えたまま返事を書いてよこした。
どうやら、間違いネームの方をこちらの名前だと完全に思い込んでしまっているようだ。
それとなく訂正を促した文章も、まったく眼中に入ってはいなかったらしい。
よほど、思い込みの激しい人のようだ。こういうおっちょこちょいな人って世の中にいるんだなァ・・・。
もう、わざわざ訂正を諭すのも諦めました。(溜息)