大浴場の怪 (前) [不思議な話 2]


大 浴 場 の 怪 (前)



    山の奥の旅館には、とかく幽霊やお化けの話題が付き物ですが、これもまた、そんな怖い出来事のお話です。


    長野市のとある会社でOLをしている山本かおり(仮名)は、同僚の佐々木香苗(かなえ・仮名)と、短い夏休みを利用して、長野県内の山奥にある温泉旅館へ、二泊三日の小旅行に向かいました。

    その温泉旅館は、パンフレットにも「信州の秘境」と、書かれているだけのことはあって、最寄りの駅からタクシーで一時間以上も走った山の中腹にあり、うっそうと生い茂る雑木林に囲まれた、実にひなびた一軒宿でした。

    古くは、明治時代の有名な文士や政治家も宿泊したことがあるという老舗の名宿ではありましたが、高級ホテル志向が一般的な現代にいたっては、このような湯治場を兼ねた旅館は、もはや、宿泊客のニーズに合わないということなのか、この日の泊り客は、彼女たちの他には誰もいないという、宿の女将の説明でした。

    それでも、二人は、日々の多忙な騒々しさから解放されて、旅館の二階部屋に流れ込む深山の蝉の声や、谷川のせせらぎの音を聴きながら、心からの安らぎと、身体のリフレッシュを覚えたのでした。

    夜は、宿の女将自慢の山菜や川魚の素朴な料理を堪能し、やがて、かおりは、香苗に、

    「あたし、ひとっ風呂浴びて来ようと思うんだけど、香苗も一緒に行かない?」

    と、誘いました。しかし、香苗は、

    「ううん、あたし、まだいいわ。もう少し部屋でテレビでも見ているから、かおり一人で入って来て」

    と、言います。そこで、かおりは、一人浴衣に着替えて、入浴道具を抱えると、先ほど女将が教えてくれた階下の大浴場へと向かったのでした。

    浴場の脱衣室で浴衣を脱ぎ、湯船のある浴場へと入ると、古びた木目が時代を感じさせる檜(ひのき)の浴槽からかけ流しの天然温泉が、おしげもなくあふれ出し、たちこめる真っ白な湯気の中に、かおりは、自らの裸身を座らせました。そして、一杯、二杯と、かけ湯をした時、ふと、自分の目の前の湯気の中に、もう一人の髪の長い女性の背中を見付けたのです。

    (おかしいな?あたしの他には、脱衣棚を使っている人はいなかったはずなんだけど・・・・。先客がいたんだわ)

    かおりは、そう思いながらも、せっかく、旅の宿で一緒に風呂へ入ることになったこの先客に、一応挨拶をしておこうと、彼女の後ろから声をかけました。

    「こんばんは、いいお湯ですね。ご一緒に入らせて頂きますね」

    「・・・・・・」

    でも、相手は、まったく返事をしません。かおりが、不思議そうに首を傾げた時、その女性は、背中まである長い黒髪を束ねることもなく、そのまま湯船の中へ入ったので、かおりも、その女性から少し離れて湯につかりました。

    女性は、髪で顔が隠れていて、かおりの所からは、その容貌は判りませんでしたが、まだ若い女性のようでした。すると、その女性の黒髪が、お湯の表面に広がるように漂うと、次第に、かおりの方へと近付いて来るような気がしました。

    気味が悪くなったかおりが、慌てて湯船から出ようと立ち上がった時、その女性は、ゆっくりと、かおりの方へ首を向けたのでした。かおりは、女性の顔を見た瞬間、思わず、悲鳴を発しました。

    「キャァ~~~ッ!!」

    何と、その女性には、顔がなく、ただ耳まで裂けた大きな口だけが、真っ赤に開き、こう言ったのです。

    「出てお行き!ここから、早く、出てお行き!」

    その恨みがましい怒りの声を聞いたかおりは、恐怖で仰天し、転がるように脱衣室へ戻ると、濡れたままの身体に浴衣をひっかけ、必死で階段を上がり、香苗の待つ部屋まで戻ったのでした。

    「香苗!!い、いま、お風呂で、化け物が----!」

    かおりは、叫びながら部屋の襖を開けて、室内へ飛び込みましたが、何故か、そこに香苗の姿がありません。

    「こんな旅館には、泊まれない。香苗を探して、早くここから出て行こう」

    かおりの焦りは頂点に達していました。彼女が大急ぎで服に着替え、荷物をまとめ始めた時、開けられた窓の外の方から、突然、香苗の笑い声が聞こえて来たのでした。かおりは、すぐさま窓の方へ寄り、身を乗り出すように外を見ます。

    そこには、眼下の真っ暗な木立の中を、懐中電灯の灯りを頼りに、旅館の裏山へ向かう一本道をたった一人で登って行く香苗の浴衣姿が、あったのでした。

    「香苗!!」

    かおりは、大声で香苗の名前を呼びましたが、彼女は、まったく気付かぬ風で、まるで誰かと話をするように楽しげな声を響かせながら、歩いて行くのでした。



                           < つ づ く >


    


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