仏像を愛でる女性たち [日々の雑感 10]


[三日月]仏像を愛でる女性たち


    
    今、巷では、奈良や京都の神社やお寺をめぐり歩く若い女性たちが増えているという。

    この女性たちの目当ては、仏像だという。

    こういう女性たちを、「仏女」とか「仏像女子」と、呼ぶのだそうだ。
    彼女たちに仏像の魅力を訊ねると、「中性的な色気があって、すらっとしていて気品がある」と、いう声が返って来るという。さしずめ、アイドルや俳優を見詰めるような眼差しで、彼女たちは仏像を眺めているのである。

    「正に、理想の彼氏です。触りたいという気持ちをこらえるのが大変です」と、いう女性もいる。

    仏像を包むお寺の空気そのものが好きで、通い詰める女性も多いそうである。

    そういえば、わたしも、高校生の頃から阿修羅像には魅力を感じていた。少年とも少女ともつかない不思議なお顔立ちに、やや苦悶を含んだ目元がなんとも印象的であった。

    考えるに、仏像を見る女性たちの目は、明らかに男性を思い描いているのである。それも、いっさい女性とは交わることのないストイックな自律の美を、その中に見出しているように思えるのだ。

    特に、こうした「仏女」たちの憧れる男性像は、男性が憧れる女性像とは明らかに異なるものである。

    いや、「仏女」に限らず、宝塚の男役や「ベルサイユのばら」のオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ、新選組の沖田総司、陰陽師・安倍晴明などに恋する女性たちにも共通することなのだが、彼女たちが素晴らしいと思う男性像、もしくは、男性的な女性像は、決して、女性に危害を加えない崇高な透明感に満ちた人物たちなのである。

    つまり、女性を愛することのない男性を、彼女たちはあえて好きになるのである。

    裏を返せば、そういうイメージのアイドルや俳優が、女性との間に交際の噂が立っただけでも、彼女たちは幻滅を感じるのである。

    しかし、それにしても、どうして仏像は、あれほどまでに中性的なのであろうか?何故、あそこまでセクシーなイメージで仏師は作らねばならなかったのであろうか?

    おそらくは、男性である仏師たちは、女性のイメージをそこに投影していたのではないかと思うのである。しかし、あくまでも仏である物を、女性そのものには作り得なかった。

    それ故、あのような極めて男女の区別が付かないような妖艶さが生まれてしまったのではないかと思われる。

    そして、「仏像」の将来には、終わりがない。永遠の澄んだ命でそこに佇むのである。

    「仏女」たちは、その姿に、自分の理想の男性像を重ね合わせるのではないだろうか?

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