女性医師が村を去る訳 [日々の雑感 5]


女性医師が村を去る訳


 ちょっと、興味深いブログを発見した。「アメブロ」というサイトにあるブログだ。

 そこには、ある村の女性医師が心身ともに疲労困憊したため、その村から去ると言い出し、村民が困っているという記事が書かれてあった。その女性医師は、六十五歳で、夫とともに村へ赴任し、年間18日しか休みを取らず、へき地医療に心血を注いできたが、村民の要求があまりに過酷で、お盆明けに一日休養したところ、「平日に診療所を休むとは、何を考えているんだ!?」と、責められ、ついに、村を去ることを決意したというのである。

 しかし、その女性医師が村を去れば、文字通りの無医村になってしまうため、村長は、女性医師に思い直して欲しいと頼んでいるようだが、そのブログの管理人は、「田舎者は、医者、弁護士、公務員などの高給取りが羨ましくてたまらないのだから、医学生は、絶対に田舎で医者をやろうと思うな!」と、忠告するのである。

 確かに、田舎には、そうした気風がないわけではない。

 医師を先生、先生と持ち上げながら、しかしながら、その先生と世間話などすることはないし、そこで暮らす自分たちとは住む世界が違うと思い込んでいる人たちばかりである。

 その背景には、医師は高給取りだというひがみや、どうせ自分たちは学歴もないという劣等感が確実にあるものと思われる。

 だからこそ、その医師が、自分たちの思い通りに動いてくれない時の反感は、尊敬の倍返しにもなってしまうのである。

 しかし、そうした感情を村民が懐くのも実は無理からぬことなのである。そのブログ管理人は、その辺りにまで思いを致してはいないのだ。

 つまり、では、それまで医師の方はどうであったのかといえば、やはり、自分たちは選ばれた人間であるから、軽々しく下々の者とは口などきけるわけがないとの距離を取ってきたことも、また、事実なのである。

 しかも、白衣は、いわば一種の権威の象徴でもある。こういうものを見なれない田舎では、殊に、白衣に対する畏怖の念が強いものだ。

 たとえ、その女性医師が、今までの医師たちとは違い、気さくで腰の低い人だったとしても、百年以上にもわたり村民に植え付けられた医者という職業に対する意識を、一朝一夕に変えることなど、どだい不可能なのである。

 だから、わたしは、あえて言いたい。

 もしも、この女性医師が本当にこの村に根をおろして地域医療に献身したいと思うのであれば、この程度の嫌がらせにひるんでどうするのかと!これは、ある意味、非常に酷なことではあるが、彼女は一人ではないのだ。夫もそばにいるし、また理解を示し、彼女を頼りにしている村民も大勢いる。

 もし、ここで、この村を去るというのであれば、やはり彼女の気持ちの中にわずかでも選民意識があったということに他ならない。

 村の診療所の医師になるためには、自分もそこの村民になり切ることである。村人と同じ言葉をしゃべり、近所の奥さんたちともバカ話をし、時には、漬物の漬け方を教えてもらうなどの柔軟性も必要になる。

 へき地医療は、単なる慈善感覚で務まるものではないが、やり通せば、これほど奥が深く楽しいものはないというへき地医療専門の医師もいる。

 「どうせ、あんたもいつかはここから出て行くんだろう?」

 住民がそういう気持ちを懐いているうちは、風当たりが強いことも仕方がないのではないだろうか?



    <今日のおまけ>

 この上記記事のブログ管理人は、かつてのわたしのブログを読んでいて下さったのかもしれない。

 長野県に対する批判記事も、過去には書いたそうである。

 どうも、田舎があまり好きではないようであるが、人にはそれぞれしっくりくるとか来ないとかいう感覚というものがあるようで、それは、大抵において理屈で語れるものではない。

 自分が良いイメージを持てれば、田舎も好きになれるのだろうが、嫌なことを田舎で体験してしまえば、田舎が大嫌いになるのも仕方がないことである。

 しかしながら、それがすなわち、医学生に田舎へは行くなというところまで敷衍(ふえん)する論拠にはならない。

 全国の医学生諸君、パソコンに打ち込まれたデータ解析ばかりでは、生身の患者を診たことにはならない。

 ぜひとも、田舎へ赴任し、真の意味で人間を治療する医師になって頂きたいものである。




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