リンゴのホットケーキ [ちょっと、一息 10]
リンゴのホットケーキ
リンゴをたくさん頂いたので、リンゴのホットケーキを作りました。
ホットケーキとはいっても、ホットケーキの素を使うわけではありません。
とにかく、短時間で簡単に作りたいので、材料はいたってシンプルです。
まず、リンゴ2個の皮をむきます。
皮をむいたら四つ切にして芯を取り、それを一センチほどの幅に切ります。
切ったリンゴをボールへ入れたら砂糖をまぶしておきます。
別のボールへ小麦粉、卵一個、砂糖、塩、マーガリン、牛乳、水を入れて混ぜ合わせます。
その中へ、先ほど切っておいた砂糖まぶしのリンゴを一気に投入。
混ぜ合わせたら、サラダ油をひいたフライパンへ流し込みます。
ガスは中火にしてフライパンに蓋をし、片面が焼けたら、ひっくり返してもう片面を焼きます。
ひっり返す時は、かなり重いので気を付けて。
両面が焼けて、ある程度中に火が通ったと思ったところでフライパンから皿へ取り出して、次に電子レンジのあたためで一分ほどチン。
こんな具合のリンゴのホットケーキが出来上がります。
ちょっと、こげましたが、味はまあまあイケました。
所要時間20分弱で出来る、安上がりのズクなしレシピです。
熱々のところを召し上がれ。
聞きわけの良い患者はダメ患者 [ちょっと、一息 10]
聞きわけの良い患者はダメ患者
「聞きわけの良い患者はダメ患者」----と、いう言葉があるという。
検査や治療の際に痛みや辛さを我慢してしまう患者は、医療関係者にとっては扱いやすい患者だといえるが、医療技術そのものの向上を妨げる元になる----と、いう意味らしい。
先日放送された『DOCTORS~最強の名医~』に、
「患者に嘘をつかれては、医師は病気を治せません」
と、いう台詞があったが、劇中では、これは、母子家庭の母親が、娘に内緒で不倫相手と東南アジアへ旅行していたせいでマラリアに感染していたのだが、娘の手前、そのことを担当医に話せなかった----との設定であった。
確かに、患者が自分の病歴や生活環境、もしくは体質について、医師に事実を話さないということはある程度の治療の妨げにはなるであろう。
しかし、認知症の人や口下手の人は、診察室での決まり切った時間内にそれらのことを何処まで医師に伝え切れるかは、疑問である。
いや、普段は弁が立つ健常者でも、病気にかかったいわゆるパニック状態の時に、自分のすべての病歴や生活について洗いざらい伝えきるのは至難の業といえよう。
だから、そういう患者の症状については、それこそ医療のプロが技術を駆使して見抜く必要があるし、また、それが出来るはずなのである。
ところが、検査や治療時の肉体的精神的苦痛は、人それぞれの感じ方があり、痛みに鈍感な人もいればかなり敏感に反応してしまう人もいる。
日本人は、人前で醜態を見せることを最も恥ずべきものと考える習慣のある国民性を持っているせいで、そうした場合の辛さを我慢してしまう傾向が顕著であるという。
そうなれば、医療関係者は患者の本当の苦痛を理解しにくくなり、医療技術の進歩も滞ることになり兼ねない。
たとえば、わたしの場合など嘔吐反射が他の人よりも激しいために、胃カメラの検査が出来ないのだが、胃カメラの欠点は、口、もしくは鼻から入れた内視鏡を、胃の方向へと喉の部分で動かすせいで激しい嘔吐反射を引き起こすことにある。
つまり、喉にあたる内視鏡部分を動かさずにいれば、さほどの嘔吐反射は起きないことになるのだ。
それには、喉のところの内視鏡は固定したままで、内視鏡の先のカメラ部分だけがそこから胃の方へ伸びるように改良すればいいのではないだろうか。
早い話が、二段階に伸びる内視鏡である。
しかし、胃カメラを苦もなく飲める患者ばかりだと、そうした技術開発も出来ないわけで、一部の飲めない患者たちがいつまでも迷惑を被ることになるのである。
『DOCTORS』では、再三にわたり、主人公の相良医師が、「ぼくは、良いお医者さんになりたいだけです」と、いう。
では、良いお医者さんとはどういう医師のことを指すのか?
おそらく、ほとんどの患者は、「ケガや病気を治し、以前と同じ健康体で社会復帰させてくれるお医者さん」と、答えるだろう。
しかし、わたしなら、そこにこう付け加えたい。
診察や検査、治療の際に患者に苦痛や苦労を与えず、恥をかかせないお医者さん----であると。
児童虐待を見抜く目 [ちょっと、一息 10]
児童虐待を見抜く目
今日、お昼のワイドショーを観ていたら、11歳の少年に日常的に暴力を振るい、食事も満足に与えていなかった31歳の同居男性が、少年に対する傷害の容疑で逮捕されたという事件を取り上げていた。
この同居男性は、少年の母親の愛人で、少年が8歳の頃から殴る蹴るの暴力を加え、今回、少年に対し肝臓破裂の重傷を負わせたことで、ようやく虐待が明るみに出て逮捕となったのだという。
近所の人は、これまでも何度か子供の悲鳴などを聞いていたにもかかわらず、母親たちの「何でもありません」の言葉を鵜呑みにし、小学校や児童相談所も、身体測定の際、少年の身体中に殴られたようなアザがあることや、体重が年齢のわりには異常に少なく、身長も低いことに気付きながら、その都度、母親や少年が、
「ご飯もちゃんと食べさせています」
「身体のアザは、ぼくが自分で転んだんです」
などとごまかす言葉を信じて、適切な対処をしなかったのだそうだ。
少年の身体には、煙草の火を押し付けられたような火傷の痕まであったというのに、結局、その言い分を良いことに、少年を救う機会を逃したのであった。
警察の事情聴取に応じた母親は、自分の知らないところで同居男性が子供に暴力をふるっていたと、話しているそうだが、つまりは、同居男性と別れることが出来ず、男性が我が子へ加える虐待を黙認していたようである。
周囲の大人たちの見て見ぬふりにより、少年は三ヶ月の重傷を負う破目になってしまったのだが、一番始めに少年の低身長や痩せすぎに気付いた小学校の担任教師が、もう少し家族内に踏み込む姿勢が取れなかったものだろうかと、ゲストコメンテーターたちも悔しがっていた。
虐待を受けている子供たちは、必ず、その事実を否定するもので、どんなにひどい親でも、子供は親が世間から非難されることを最も恐れ、親を庇うものなのである。
つまり、虐待されている子供から話を聞き出す場合は、子供が嘘をつくことを前提にして、聞き取りをするべきだと、専門家は説明する。
また、家庭内の事情を話す親も虐待を認めるわけはないので、当然ながら嘘をつくのだ。
現に、この同居男性も、逮捕前の番組インタビューに対して、
「暴力を振るったことはない。三度のご飯もちゃんと食べさせていた」
と、平然と答えているのである。
ただ、その答え方はかなり不自然で、終始口ごもりながらという様子であったが・・・。
ならば、異常に虫歯が多いとか、着衣がいつも汚れているなども含めて、子供の生活態度や健康状態に疑念をもった大人は、その虐待を見抜くためにどうすればいいのか?----と、いうことになる。
おそらく、児童虐待における第一発見者は、学校の担任教師になる確率が高いと思われるため、小、中、高校の教諭たちが虐待を見抜くプロになるための教育を、大学の教職課程を履修する際に必修科目として受講するというのが理想だと思われる。
以前聞いた話だが、家でご飯を食べさせてもらえないのではないか----との疑念を懐かせるほど痩せた子供の担任教師が、その子にそのことをそれとなく訊ねたのだという。
しかし、案の定、子供は親から食事を与えられていないことを否定した。
すると、担任教師は、放課後その子供を保健室へ呼んで、予め持参した弁当を広げると、
「今日、先生、お腹が痛くてお弁当食べられなかったんだけれど、捨てるのももったいないんで、代わりに食べてくれないかな?」
と、言ったところ、子供はその弁当をむさぼるように空にしたのだという。
そして、ようやく、家でご飯をほとんど食べさせてもらっていないことを認めたのだそうである。
結局、その子供の家は、貧しい母子家庭であったために食費を節約しなければならず、子供に満足な食事を与えられなかったということで、虐待とまではいえなかったのだそうだが、このケースのように、身近にいる大人たちのささいな気付きや敏感さが、子供たちの大切な命を救うことにもなるのである。
寒い日・・・ [ちょっと、一息 10]
寒い日・・・
今日から師走・・・。
さすがに、寒いです。
今日も病院へ行って来たのですが、途中の橋の上の気温は2度でした。
つまり、こちらは、それ以上に寒いというわけです。
晩秋の情緒にひたっている場合ではなくなりました。
世の中はクリスマスシーズン突入で、街のあちこちにチャカチャカのイルミネーションが輝く季節ですが、あの青色発光ダイオードの青が、その寒さをさらに後押しするようで滅入ります。
出来れば冬季のイルミネーションの色は、黄色や赤系統にして欲しいと思うのですが、青いLEDライトの方が安上がりなのでしょうか?
それにしても、クリスマスツリーの飾りや壁に下げるクリスマスグッズを、最近の言い方では、スワッグとかオーナメントとかガーランドなどというそうですね。
おしゃれな横文字言葉があふれるのも、この季節の特色です。
クリスマスグッズは、見るものすべて欲しくなってしまうほど夢いっぱいの美しさですが、買ってみたところで、結局は物置の肥やしになるのが毎年のお決まりなので、最近はほとんど購入しなくなりました。
以前は、手当たり次第に買っていたものですが、今やクリスマスパーティーも過去の話ですから・・・。
人間、年をとると、イベントに傾ける情熱も衰えて来るようです。
クリスマスツリーも、後片付けを考えると、「今年は、いいか・・・」と、なるわけです。
そんなことで、せめてブログの中だけでもクリスマスっぽい雰囲気を出してみたいと思います。
あるエッセイを読んで・・・ [ちょっと、一息 10]
あるエッセイを読んで・・・
これまで特に気にすることもなかったのだが、近頃気付いたことがある。
まあ、ど~~でもいいと言えば、ど~~でもいいことなんだけれど・・・。
新聞や雑誌に掲載されているエッセイを読むと、どうして、こういう寄稿文の筆者には、これほど贅沢な生活をしている人が多いのか----と、いうことだ。
いくら仕事の関係とはいえ、東京と信州を一週間に何回も新幹線で往復している人がいるかと思えば、庶民感覚では到底手が出そうもない食材を使った料理レシピが平然と書かれていたりする。
この間は、バリ島で夫婦ともども体調を崩したというエッセイを読んだのだが、そこには、バリ島の医師や看護師の献身的な治療について感激したとの筆者の心情が記されていた。
しかし、そのエッセイを読むにつけ、初っ端から驚いたのが、まずエッセイの舞台になっているのが薄給の一般庶民にとっては夢のリゾート地のバリ島だということである。
その旅でのエピソードが、特別気取ることもなく淡々と始まっているのだ。
まるで、バリ島などこれまでも何度も訪れた隣の県へ行くような感覚で、「別に驚くことでもないでしょう」とばかりに、その文章は書かれている。
そこで足の感染症を患い、駆け込んだ現地の病院での手厚い治療ぶりに感心したということに加え、帰国後に受診した皮膚科の医師までが東南アジアのリゾート通であったという記述にも、唖然であったし、そのあまりの世間一般の感覚とのズレに戸惑いすら覚えた。
しかし、次を読み進めると、その旅行の帰りの機内で腹痛を訴えた妻を、帰宅後に近所の内科医院へ連れて行ったところ、そこの医師が、
「現地で病気になるのは自己責任」
と、言ったとの一行に、ようやくホッとした気分になれた。
筆者の妻は、診察後、「バリのお医者さんとはずいぶんな違いよね」と、愚痴ったようだが、その近所の内科医の言葉は一般的な日本人の感覚そのものであろうと思う。
おそらくその内科医にも、外国旅行へ行き遊んできた人間が胃腸炎になったところで同情の余地なし、身のせいだという気持ちがあったに相違ない。
もしも、この妻が家計を節約するあまり、つい賞味期限切れの食材を食べて腹痛になったというのなら、医師もこうした厳しいもの言いはしなかったはずである。
そして、こうも思った。
バリ島の観光協会としては、日本人観光客は大のお得意先であるから、現地の医療施設に対しても外国人観光客には丁寧に接せよとの依頼をしているのかもしれない。
帰国後にかかった内科医のきつい発言は、そんな筆者夫婦の浮かれた生活に対する戒めだったに違いない----と。
不適切発言の裏側 [ちょっと、一息 10]
不適切発言の裏側
一川保夫防衛相は29日夜、那覇市内での記者団との懇談会で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設に関する環境影響評価書の提出時期をめぐり、不適切な発言をしていたことが分かった沖縄防衛局の田中聡局長の更迭を決めた。(ヤフーニュース)
ある心理学の本を読んでいたら、ほとんどの不適切、または勘違い発言の裏には、それを言った人の無意識の思い込みが隠れている----と、書いてあった。
たとえば、ある自治体が作った「雪国はつらつ条例」なる言葉を、つい思い込みで、「雪国はつらいよ条例」と、書いてしまった人がいたそうだ。
その人は、「雪国は寒いので、きっと冬はかなり辛いに違いない」という先入観から、そんな書き間違いをしてしまったと思われる。
ある漫画には、一人の登山者が疲れのために早く何処かで休みたいと思うあまり、「もうすぐ頂上、ガンバロー」と書かれていた立て札を、「もうすぐ頂上、バンガロー」と、読んでしまった----との爆笑シーンが描かれていた。
田中局長の失言も、不適切という表現を使ってはいるが、そもそも本当に不適切だと思っていたら決して口から出るはずのない言葉である。
この発言が事実だとしたら、おそらく、彼は、常にこうした類の話を身の周りの人たちと交わしていたのではないかと思われる。
つまり、生活の中で、そうした類の話題が日常的に行なわれていたがために、たとえ非公式の場とはいえ、無意識のうちに発せられてしまったのではないだろうか。
まったく頭にない言葉が、つい口をついて出るなどということは普通の人間心理ではほぼあり得ない。
失言の裏側には、たいていにおいて、その人自身の本音が隠れているといっていいのである。
他人の健康が妬ましい [ちょっと、一息 10]
他人の健康が妬ましい
「人の不幸は蜜の味」
とは言うが、自分が大病を患っている人の中には、時にこうした感情が強くなる人もいる。
知り合いの高齢男性は、重大な病気を抱えているせいか、友人が大病で入院したなどと聞くと、途端に元気になり、
「あいつは、もう、長くないみたいだな」
などということを平気で口に出す。
しかし、その入院した人が病気が回復してしまうと、その悔しがりようではないのだ。
また、ある男性は、自分が病気にかかると、友人たちも同じ病気にかかってくれないかと、日々望むようになったという。
そして、その男性の友人の一人が医師から検査をした方がいいと言われただけで、
「あいつは、おれと同じ病気だそうだ」
と、早合点して周囲に言いふらした。
ところが、検査結果は異常なし。
「まったく、脅かされたよ」
と、苦笑いする友人に向かって、
「そんなはずはない。絶対に異常個所があるはずだ」
と、無理やり疑ってみせ、不安感をあおり立てたのだそうだ。
そういう他人の不幸を望む傾向は、どうも高齢者に多いようだ。
若いうちは、病気になっても治る見込みがあるので健康な人をうらやむ気持ちは薄いのだが、高齢になると、完全回復の確率も必然的に下がるので、常に持病のことが頭から離れず、どうしても、同病の仲間が欲しくなるらしい。
今日、ワイドショーを観ていたら、昔、名子役と呼ばれた斉藤こず恵さんが出演していて、現在、彼女は甲状腺がんを患い、抗がん剤治療中だと話していた。
その際、斉藤さんがこんなことを言った。
「こういう病気になると、本当に気持ちを判りあえるのは、家族でも友人でも恋人でもない。同じ病気で苦しんでいる人たちなんですよ」
病気の人にとって、心から信頼し語り合えるのは、やはり、同じ病気と闘う患者同士しかいないというのである。
だから、上記の彼らもきっと、自分と同じ病に苦しむ人たちが身の回りに大勢いてくれることが安心であり、自分はまだ大丈夫だという確信のよりどころにもなるのだと思う。
病気になって心細いのは良く判る。
どうして、自分だけが・・・と、思う辛さも悔しさも当然のことだ。
だからといって、健康な人を妬むようなことは言って欲しくないし、そんな言葉を聞かされる側も快くはない。
どんなに人を妬んでも、現実の自分から逃げ出すことは出来ないのだから・・・。
病気とうまく付き合いながら、そこそこ生きていければそれでいい----そんな、ある意味前向きな諦めも悪くないのではないだろうかと、考える昨今である。
ある商店主の悩み [ちょっと、一息 10]
ある商店主の悩み
それでも、晩秋の休日ともなると、大勢の観光客が街の中を歩いている。
しかし、ある商店主の話では、そんな観光客が店へ入って来ても、ほとんど商品を買おうとしないというのである。
では、観光客は何が目的で店を訪れるのか?
「おしゃべりですよ」
と、店主はため息をついた。
店主が言うには、入店して来た客が、店内の雰囲気を一通り眺めたあとで、
「最近の、こちらの景気はどうですか?」
と、いうようなことを言い始めたら、この客はなにも買う気がないな----と、即座に判るらしい。
そこで、客の話に乗ったら最後、延々と身の上話が続くだけで、結局買い物などせずに立ち去られるのが落ちだという。
とにかく、相手は話がしたくて旅に出て来るのだから、端から買い物などする気はないのが普通なのだそうだ。
また、買い物は、別の場所で既に済ませて来ている場合もあり、そのあとの商店には、だいたいにおいて子供自慢やこれまで旅行して来た場所の思い出話などを聞いてもらいたいためだけの目的で、立ち寄るのがせいぜいなのだそうである。
もしも、本当に買い物が目的ならば、客自身が真っ先に商品を購入してから、なりゆきで話を始めるのだという。
そこで、その店主は、そういういわゆる「冷やかし客」を見極めるために、ある方法を考案した。
店舗へ入って来て世間話をし始めた客に対して、わざとこう言うのだという。
「お話は、あとでうかがいますから、お買い物を先にされたら如何ですか?」
話だけが目的で入って来た客は、その一言で出鼻をくじかれたと思い、渋々店から出て行くというのである。
長々時間をとられて話に付き合ったあげく、何も買ってもらえないのではあまりに腹が立つ。
しかも、その一人の客につき切りになることで、別の客への応対が出来ず、そちらも逃がしてしまうことになり兼ねないというわけだ。
実は、コンビニの従業員もこうした話し好きの客には悩まされていると聞く。
コンビニの従業員は、原則、長い時間客の世間話に応じることは禁止されているそうで、道案内や商品説明などには丁寧に応じるが、身の上話を聞くようなことは出来ないのだという。
とはいえ、近所の常連客がレジカウンターの前に立ったまま、孫が、息子が----と、話し出すのを無下に無視することも出来ず、いつも困惑するのだという。
もしも、そこで、話を聞かずにいれば、あとで、
「あのコンビニで働いている〇〇さんちの娘、薄情だよね」
などという噂を流されることだって考えられる。
そういえば、以前、一時間いくらで身の上話を聞いてくれるという商売を始めた人がいるという話題をニュースで取り上げていたが、あの商売はどうなったのだろうか?
その後の状況は耳にしない。
話は聞いて欲しいが、料金を支払ってまでは・・・と、いうことなのだろうか?
とにかく、昨今は、話を聞いて欲しくてたまらない人が異常に増えた。
つまりは、自分がここにいるということを誰かれなしに知って欲しいという、孤独な人が増えているということなのだと思う。
こんな季節だから・・・ [ちょっと、一息 10]
こんな季節だから・・・
こんな季節だから、我が家はここのところ毎日クリームシチュー三昧だ。
しかし、連日のクリームシチューは、確かに飽きる。
で、ちょっと、目先の変わった食べ方をしてみようとアレンジすることを思いついた。
まず、お皿にご飯を盛り、そこへクリームシチューをかける。
その上にとろけるスライスチーズを一枚載せ、電子レンジでチン。
チーズがとろけたらレンジから取り出して、粉チーズを少々ふりかけて食べる。
とにかく、熱々なので極力火傷に注意のメニューだが、腹もちが良いわりに安価でドリアっぽさも味わえるお得レシピだ。
クリームシチューは、野菜たっぷりなので栄養的にもあまり偏りがない。(と、思う)
先日、弟に作ってやり、味はどうかと訊いたら、
「熱くて、しゃべれねェ・・・」
と、言いながらも、しっかり完食していた。
スマートフォンって、本当に必要なの? [ちょっと、一息 10]
スマートフォンって、本当に必要なの?
新聞を読んでいたら、東日本大震災で被害に遭った人たちが、本当に欲しかったのは紙に書かれた活字、もしくは手書きの情報だったという記事があった。
「新聞をもらった時、そこに書かれている記事の信頼度や紙やインクの匂いに癒された」
と、感じた人たちも少なくなかったそうだ。
が、今や巷ではスマートフォン・ブームが花盛りである。
スマートフォンを買った人たちは、そのことを称して、「スマホ・デビュー」というそうだ。
スマートフォンは、携帯するパソコンとでもいうべき多機能携帯電話のことで、この小さな端末一つで様々な用途を網羅してくれるのだという。
電話、メール、ワンセグTV、写真、辞書、書籍、検索機能、音声付録画、翻訳、ゲーム、音楽、ショッピング、医療などなど・・・。
ありとあらゆるアプリケーションを取り入れるだけで、その機能性は無限に広がるのだという。
近未来には、スマホでお湯まで沸かせそうな勢いである。
しかし、それほど便利なスマートフォンだが、果たして、それだけの多機能を毎日徹底的にフル活用している人が何人いるのだろうか?
人間には、日々最低限行なわねばならない生活の基盤があるはずだ。
それを無視して、インターネットの世界だけで生活出来る人は皆無だと思う。
今は、珍しさも手伝って連日スマホ三昧という人もいるだろうが、何もかもを指でタッチするだけで事足りてしまう日常が、人間の脳や身体に良いとはとても思えないのだが・・・。
人間は、いつしかそうやって、これまで膨大な時間をかけて培い育てて来た人類としての能力や可能性を自ら放棄して行くのかもしれないと考えると、ある程度の便利さを手に入れたところで、一定の区切りを設ける勇気も必要なのではないかとさえ思う、この頃である。